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藤家洋一先生のご功績の紹介
I .学術研究分野におけるご功績
 先生は、大阪大学で教鞭を執られていた当時は、液体金属MHD 発電、ヒートパイプによる熱輸送など、液体金属を利用したエネルギー変換に関する研究を幅広く展開されていました。

 これらの研究と並行して展開されていた原子炉の安全性に関する研究では、特に液体金属冷却高速炉の苛酷事故時の挙動に関する研究として、液体金属の沸騰・熱伝達、溶融燃料と冷却材の熱的相互作用(FCI)等の研究に精力的に取り組まれていました。

 このように原子炉安全性に関わる主要な物理現象を直接観察され、基本的な理解をされていたからこそ、当時最新型の軽水炉や高速原型炉もんじゅの安全審査に主導的役割を発揮されたのだと思います。

 先生は、1980年に名古屋大学プラズマ研究所の教授になられました。その滞在された6年間に、核融合の安全評価手法の開発に取り組まれました。General Methodology of Safety Analysis and Evaluation for Fusion Energy Systems(GEM‐SAFE)という、設計が固まっていない核融合炉概念に対しても、システムを構成する「機能」に着目することで、安全設計・評価の考え方、手法は定義できるというもので、見事に纏められました。

 このような研究のバックグランドを背景に、1986年に東京工業大学・原子炉工学研究所に異動されてから、「自ら整合性のある原子力システム」の研究に先生が取り組まれることになります。
 1992年、シカゴ・パイル1号の初臨界から50年の年に、初めて論文として発表された自ら整合性のある原子力システムは、英語でSelf-Consistent Nuclear Energy System、略してSCNESと呼び、「リサイクルによる資源の完全利用とゼロリリース」を基本理念に、 (1) エネルギーの高効率利用及び多目的利用、(2) 資源のリサイクル、(3) 放射性廃棄物の非放射化、(4) 安全の確保という4つの要件を同時に達成する概念です。

 この研究は、先生のリーダーシップのもと、東京工業大学・原子炉工学研究所の先生方、学生、設計メーカの炉心設計、炉物理、安全などの専門家を集め、4つの要件の具体的内容、同時達成の可能性等について幅広く検討されました。高速中性子による核分裂では、核分裂反応あたり放出される200 MeVのエネルギーと約3個の中性子を利用して、連鎖反応を持続し、中性子を吸収させて燃料に変換、増殖させることと、長寿命のマイナーアクチニドや核分裂生成物を非放射化(正確には何万年以上もの長寿命核種を核変換し、放射性毒性などの持続期間を百年オーダまで短寿命化)させることが可能です。この研究においては、ロシア(クルチャトフ研究所、モスクワ工科大学、オブニンスク原子力工科大学)の科学者との研究交流も進められました。

 研究の成果は、国内の学会はもとより幾つもの国際学会で報告されましたが、炉システムから燃料サイクル、廃棄物処理までの概念をカバーするSCNES の幅広さから、SCNESをテーマとした国際会議が設定され、1994 年に第1回のSCNES 国際会議としてGENES会議(International Symposium on Global Environment and Nuclear Energy Systems)が裾野で開催されました。その後、1996年には第2回会議を敦賀で、1999 年に第3回会議を東京で、そして最近では昨年2003 年に第4回会議がANP(Design and Safety of Adv. Nucl. Power Plants)会議と合同で京都にて開催されました。また、この間2000年には東京工業大学・原子炉工学研究所の齊藤正樹先生のリーダーシップのもと、裾野にて「ゼロリリースに向けた原子力システム」という国際セミナーが藤原財団の支援を受けて開催されました。これら一連の会議は内外から高い関心と評価を受けて参りました。

 先生は、このSCNESは究極の原子力エネルギーシステムの概念、つまり原子力開発のゴールと言われています。この方向に原子力の研究開発が進んでいることを示すことで、一般の人にも原子力開発に対する安心が得られるのはないかとも仰っています。

 このため学会内での活動だけでなく、1982年には「原子力:核エネルギーの解放とその利用」、1992年には「21世紀社会と原子力文明−宇宙エネルギーをつくる」、1995年には「原子力−総合科学技術への道」、1998年には「リサイクル文明が求める原子力−その全体像と長期展望」、2003年には「核燃料サイクル−エネルギーのからくりを実現する」などの啓蒙本を出版され、その中でSCNESに関するお話もされています。また最近では、先生の長年の構想を結実された「原子力−自然に学び、自然を真似る」と言う原子力の教科書を出版されており、その本の冒頭には「核エネルギーの持つ原子力の本質を捉え、その全体像を見据えることが重要で、原子力を志す若い研究者、技術者にしっかりと学んで欲しい」と書かれています。

 また、先生は原子力委員の時代も含めて国際的にも多方面で活躍されています。欧米の原子力開発の停滞期においても、ドイツ、フランス、米国、韓国等の専門家を交えた国際会議やワークショップを開催し、高速炉サイクルの安全性、研究開発の方向性等に関して、コンセンサス作りに努力されてきました。特に、米国との関係ですが、アルゴンヌ国立研究所との交流から始まり、やがてこれは1997年から、日米の原子力関係者が原子力に対する熱い思いを語り、相互理解を深めるためにサンタフェセミナーの開催へと発展していきました。先生はその設立当初からキーメンバーとして参加され、核燃料サイクルの必要性、SCNESの概念、研究成果について毎年お話をされてきました。多くの出席者から、この概念について賛同の言葉がわき上がり、第5回会議(2003年)では、米国エネルギー省(DOE)長官から日米原子力協力促進への貢献に対して先生に感謝状が贈られるとともに、更なる両国の協力関係強化を期待して、2004年からのDOEの藤家フェローシップ創設に繋がったと伺っています。

 先生は、この研究を始めた頃、ロシア人科学者と意気投合されたこと、SCNESの話をされた時に、多くの欧米の研究者からも先生の概念が高く評価されたことから、当然の帰結のように思います。日本発のオリジナルなアイデアが、世界の原子力開発の未来、つまり原子力による人類の繁栄を拓くとの合意があるわけです。

 現在、日本原子力研究開発機構が電力等と協力してオールジャパン体制で実施している「高速炉サイクルの実用化戦略調査研究」では、7年前に研究に着手し開発目標を検討した際には、SCNES の理念、開発目標が参考になっています。その後、米国の提案で始められた第4世代原子力システム(GEN‐IV)国際フォーラムの開発目標も、SCNESとほぼ同じ開発目標となっています。

 また、安全性目標については、高速炉の開発当初から重要視されてきた炉心損傷時の再臨界問題を回避するための方策、その有効性を試験などによって実証可能であることが重要との認識で、SCNESの議論と並行して、国内のみならず海外の高速炉の安全性の専門家との意見交換を通じて検討が行われました。その検討過程においても先生の強烈なリーダーシップがあったからこそ、具体的なアイデアが活かされ、その有効性を確認するための試験研究が、7年ほど前から電力と日本原子力研究開発機構が共同して、カザフスタンの炉内試験装置を用いて進んでいます。これも実用化戦略調査研究の安全要求の重要なテーマです。

 カザフスタンとの協力は、1993年に招かれてクルチャトフ市を訪ねたことから始まり、研究者との交流に加えて町の人たちとも良い関係が続いています。訪問の度に小学生の学芸会が開かれ、夕刻には村長夫妻を含めて大人数の宴会がテントの中で数時間にわたって行なわれるなど、「酒がとりもつ縁」を大事にされる先生の面目躍如です。

 先生が実施されてきた多くの研究は、これから具体的な成果が出てくるのが期待されます。
II .原子力委員会等でのご功績
〇原子力委員会委員(1995年4月15日〜1998年1月5日)及び、
 原子力委員会委員長代理(1998年1月6日〜2001年1月5日)としてのご功績
 先生が原子力委員に就任された1995年は、変換されたガラス固化体の貯蔵が行われる青森県を初めとして、国内において広く高レベル放射性廃棄物処分に向けた取り組みへの関心が高まった頃でありました。
 先生を含む原子力委員会は、高レベル放射性廃棄物の処分の具体化に向けての主要課題について取り組んでいくため、1995年9月「高レベル放射性廃棄物処分への取り組みについて」原子力委員会決定し、高レベル放射性廃棄物処分に対する認識を示すとともに、「高レベル放射性廃棄物処分懇談会」及び「原子力バックエンド対策専門部会」の2つの専門部会を立ち上げるなど、先生は多大な貢献を果たされています。
 
 1995年8月には、「新型転換炉実証建設計画の見直しについて」を取りまとめられました。これら審議において、先生は、既成事実にとらわれない柔軟な考え方で対応し、原子力委員会の検討を主導され、ATR実証炉の建設計画の中止が妥当とする原子力委員会の英断となりました。

 1995年12月には、高速増殖原型炉「もんじゅ」の2次系ナトリウムの漏えい事故が発生し、それを契機に、国民の間に原子力に対する不安感などが高まりました。先生をはじめとする原子力委員会は、国民との対話、国民の声の反映のための取り組みの強化を図ることを目的に、1996年3月、原子力政策円卓会議の設置を決定されました。原子力政策円卓会議は、議事、及び議事録も全面的に公開され、各分野におけるモデレーターの議事進行の下、国民各界各層からの招へい者、原子力委員を交え、計11回の会議が開催されました。「もんじゅ」の事故に対する一連の原子力委員会の取り組みに際し、先生は、原子力委員としてこれをリードし、積極的に活動されるとともに、その豊富な知見から、存分にその持てる力を発揮され、大変大きな貢献を果たされました。

 1998年1月には、先生はこれまでの原子力分野における豊富な経験により、原子力委員会委員長代理に指名されました。この頃は、国民の間に原子力に対する不安や不信が高まり、原子力の安全確保に対する取り組みや、情報の透明性の向上、政策過程への国民の参加の推進等が積極的に図られた時期でありました。また、原子力委員会では、1998年1月、「当面の核燃料サイクルの具体的な施策について」を原子力委員会決定し、プルサーマル、使用済燃料の管理、バックエンド対策、高速増殖炉の開発について具体的な施策を示されています。
 
 高レベル放射性廃棄物懇談会においては、1998年5月に報告書を取りまとめましたが、先生は、国民との相互理解活動の促進や、政策決定過程における国民参加のインフラ整備において、原子力委員会の姿勢を強く打ち出すとともに、原子力委員会委員長代理として現場を指揮し、あるいは関係者間の調整等に誠心誠意取り組まれました。

 1997年3月に発生した動燃東海事業所再処理施設アスファルト固化処理施設での火災爆発事故においては、「もんじゅ」事故から時を置かずして起こったこともあり、動燃の安全管理に対する国民の懸念が高まりました。「動燃改革検討委員会」では動燃改革の基本的方向を取りまとめ、1998年10月の新法人「核燃料サイクル開発機構」の設立に向け具体的な作業が行われました。原子力委員会は、原子力への国民の信頼回復はもとより、核燃料サイクル開発機構の運営に係る業務の重大さを認識し、機構の業務の基本方針策定に主体的に取り組まれました。

 原子力開発利用に対する国民の不安と不信に対し、「いつでも、どこでも、誰とでも」という考えのもとで、先生は、指導的立場から、原子力に関する情報の公開や、政策決定過程の透明性の確保の必要性を強く感じ、特に1997年4月以降、原子力委員会では、基本的に議事を全面公開とし、広く国民に原子力政策の審議過程が見えるよう努めましたが、先生はこれらインフラ整備に多大に尽力され、大きな貢献を果たされました。
 原子力委員会は、1956年に最初の「原子力開発利用長期基本計画」いわゆる長期計画を定めて以来、概ね5年ごとに策定してきています。2000年はその9回目の長期計画を策定した年でありますが、その審議に際しては、議事はインターネット等と通じ公開するなど、すべて公開し、極めて透明性の高い審議が行われました。さらに取りまとめに際しては、国民やご意見をきく会での意見の長期計画への反映に努め、先生は、指導的立場から精力的に事にあたられ、また策定全般について終始把握するとともに、その取りまとめにおいて中心的役割を果たされました。
〇原子力委員会委員長(2001年1月6日〜2004年1月5日)としてのご功績
 これまで原子力委員会委員長は、原子力委員会設置法により、科学技術庁長官である国務大臣が充てられることとなっていましたが、2001年1月、民間学識経験者としては初めての委員長として、先生が就任されました。

 先生は、原子力委員であられた頃より常に原子力に対する信頼回復の為の取り組みに尽力されましたが、原子力委員長となってからもなお、その為の努力が絶える事はありませんでした。「もんじゅ」事故を契機とした動燃の組織改革は、核燃料サイクル開発機構の発足後も、同機構及び日本原子力研究所の廃止・統合に向けた調整が進められました。先生は、これら両法人の統廃合に向けた取り組みの推進に関し指導的立場から精力的に事にあたられ、本件に係る道筋を示すなど、原子力委員長であられた先生の果たした役割は非常に大きいものでありました。

 高速増殖炉サイクル技術については、「もんじゅ」について、原子炉等規制法に基づく審査を行い、係る答申を出すに当たり、2002年12月、「高速増殖炉サイクル技術の研究開発についてのメッセージ」において、高速増殖炉サイクル技術についての着実な開発の重要性や早期運転再開を目指すことが望ましい旨の公表を行いました。先生は、高速増殖炉サイクル技術の研究開発の着実な推進に際し、大変大きな貢献を果たされました。

 プルトニウム利用に関しては、先生は、原子力委員会において、2003年8月、プルトニウム利用を進めるにあたり平和利用に係る透明性向上の観点から、「我が国におけるプルトニウム利用の基本的な考え方について」を原子力委員会決定されました。この考えに基づき、2006年1月には、各事業者等がプルトニウム利用計画を公表しています。当該利用計画の公表については、我が国が世界に先駆けて独自に行っているものであり、先生は、これら透明性の向上に係る取り組みについても指導的立場から精力的に主導されています。

 国際関係については、2002年10月、北朝鮮の核開発に関し米国国務省の発表を契機に北朝鮮の核開発問題が国際社会の大きな懸念となりました。これに対し、先生及び原子力委員会は「北朝鮮の核開発について(緊急声明)」をいち早く公表、同問題に対し遺憾の意を表明するとともに、我が国政府が適切な方策を講じるよう要請を行いました。また2003年1月には、「北朝鮮の核兵器の不拡散に関する条約(NPT)からの脱退声明について(緊急声明)」を公表されています。(1998年5月には「インドによる核実験について」の原子力委員会委員長談話と「パキスタンによる核実験の実施について」の原子力委員会声明がそれぞれ出されています。)

 先生は、初めての民間からの原子力委員長という大役にも何ら臆することなく、精励恪勤に事にあたるとともに、学識経験者ならではの深い知識と鋭い判断力、既成事実にとらわれない柔軟な考え方や高い指導力により力強く委員会を牽引され、その持てる力を充分に発揮されました。
〇原子力安全委員会「原子炉安全専門審査会」審査委員(1978年12月28日〜
 1995年3月20日)としてのご功績
 先生は、柏崎刈羽原子力発電所の1号原子炉の審査を皮切りに、同審査会における数多くの審査に専門的視点から貢献され、特に、女川原子力発電所の原子炉の設置変更(2号原子炉の増設)に係る審査等に当たっては、当該審査のために設置された部会の部会長として、部会における審査の取りまとめに尽力されました。また1989年2月からは原子炉安全専門審査会会長代理として、1993年2月からは原子炉安全審査会会長として、豊富な経験と卓越した指導力により同審査会における柏崎刈羽原子力発電所の原子炉の設置変更(6,7号原子炉の増設)に係る審査等を取りまとめ、同審査会の厳正な調査審議の実施に多大な貢献をされました。

 1979年3月に米国のスリーマイル島で発生した原子炉事故(スリーマイル島原子力発電所2号機 :TMI-II)事故は人類が原子力平和利用として初めて経験した大事故として世界に衝撃を与えた。この事故調査のために日本から最初の専門家としてアメリカに派遣され、一ヶ月にわたり調査され、その結果は原子力安全委員会の事故調査報告書に52項目の改善提案にまとめられている。それらの改善項目は原子炉システム、原子炉運転、そして原子力防災など広汎に及び、その成果は現在のより高度な原子炉安全確保への大きく反映されています。
〇原子力安全委員会専門委員(1985年3月25日〜1995年3月20日)としてのご功績
1. ソ連原子力発電所事故調査特別委員会構成員としてのご功績
 先生は、「ソ連原子力発電所事故調査報告」(1987年5月)の調査審議にあたり、その専門的知見により的確な意見を述べられ、報告書の取りまとめ等に大きく貢献されました。

2. 原子炉安全基準専門部会構成員としてのご功績
 先生は、「配管の破断に伴う『内部発生飛来物に対する設計上の考慮』について」(1992年3月)、「発電用軽水型原子炉施設におけるシビアアクシデント対策としてのアクシデントマネージメントについて」(1992年5月)、「発電用軽水型原子炉施設に用いられる。
 混合酸化物燃料について」(1995年6月)等の調査審議に当たり、その専門的知見より的確な意見を述べられ、指針の策定に多大な貢献を果たされました。

3. 原子力施設等安全研究専門部会構成員としてのご功績
 先生は、「原子力施設等安全研究年次計画(1991年度〜1995年度)」(1990年9月)の取りまとめの調査審議に当たり、その専門的知見により的確な意見を述べられ、多大な貢献を果たされました。

4. 原子力発電所等周辺防災対策専門部会構成員としてのご功績
 先生は、ICRP(国際放射線防護委員会)1977年勧告取り入れ(1989年3月)のため、「原子力発電所等周辺の防災対策について」の改訂に係る調査審議、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDT)の取り入れ(1992年6月)に係る調査審議において、その専門的知見を最大限に活用され、多大な貢献を果たされました。

5. 緊急技術助言組織構成員としてのご功績
 先生は、原子力災害対応体制の確立に多大な貢献を果たされました。
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