福島第一原子力発電所事故に思う

 藤家洋一 

1.はじめに

 3月11日の東日本大震災、特に被災した福島第一原子力発電所事故から3ヶ月過ぎ、その直後から今日まで、海外も含め多くのマスメディアのインタビューを受け、カザフスタン、韓国においても同様にマスメディアのインタビューを受けました。また国の内外での原子力関係者との会合などで多くの質問を受けましたし、議論もしました。この間に福島の事故現場の状況、社会の動きに変化もあります。事故現場では、燃料の冷却を継続する一方、増え続ける汚染水処理設備の稼動が始まり、事態の収束に向けた方向が見え始めました。社会では、放射能汚染への不安が収まらず、避難されている方々の負担が増大し、他の原子力発電所の稼動、再稼動への懸念が電力不足への懸念へと広がり、また、自然エネルギーへの情緒的過大な期待へと繋がっています。この一連の社会の動きは、社会の活力を殺ぎ、若者の明日への希望を失わせることになります。ここで、もう一度、私からのメッセージを発信します。

2.化学反応に根ざす文明から核反応に根ざす文明への緩やかな移行

 原子力は目に見えない、ミクロ世界の科学技術ですが、その現れるところが宇宙であり、星であるところにスケールの大きさがあります。しかし人類がその存在に気付いた1895年以来1世紀余を経過しただけではまだ社会に十分認知されないでいます。 一方化学反応に根ざす文明は火の発見と制御に始まり、200万年とも500万年とも言われる人類史の中で永い年月をかけ、さらに産業革命で化石エネルギーの利用に至って化学反応を積極的に使いこなす中で培われてきました。それだけに人々はそのからくりをかなりの程度理解し、日常性の中で考え、判断することが出来るようになっています。 一方核反応は化学反応とは比較にならないほど巨大なエネルギーが関与し、且つ複雑で、たとえそれが宇宙のエネルギーの根源であることをたとえ知ったとしても、まだ1世紀を少し超えた利用の歴史では、そのからくりも、本質も十分には認識できる段階には至っておらず、社会への定着には永い年月が必要でしょう。

○原子力は放射線の発見に始まる 1895年レントゲンがX線を発見し、放射線利用の世界が拓かれましたが、20世紀の中ごろに原子炉が出現し(1942年)、放射線利用に加えて、核エネルギーの解放が始まりました。 今でも社会では原子力と放射線はまったく別物のように受け止められていますが、利用の観点に立てばこの理解は当然かもしれません。しかし現象的、科学的に見れば両者は密接につながっており、〔放射線と物質の相互作用〕という言葉で統合できるでしょう。 核エネルギーの最初の威力は不幸なことに原子爆弾(1945年)によって示されましたが、核の冷戦構造の中でも人類の英知はその後これを繰り返すことなく、平和利用に向けて研究開発を続けてきました。その結果軽水型原子力発電は基幹電源としてその地位を確保し、放射線利用は科学技術の世界から社会にその応用分野を広げて来ています.しかし残念なことに社会はまだ原子力をまだ自らと共存できる存在と認識するまでには至っていないようです。我々が生きている地球の自然が化学反応に根ざす生態系を中心に組み立てられて来たことにもよるでしょう。化学反応は見えても核反応の世界を垣間見ることは不可能に近いのですから。

○化学エネルギーは地球のエネルギー 地球は他の恒星や惑星の中では、特殊な星です。地球は、水の惑星と呼ばれる「星」です。そこには、生態系という動物と植物が共存する世界が開けています。 ここが、今のエネルギー問題、環境問題を生み出した原点といっても、決しておかしくありません。それは、人類がこの生態系に入り込んで自らの文明のために、生態系を荒らしたことが、現在の問題につながっています。人類文明は化石エネルギーによって大きく転換し、現在に至っています。その意味で地球に届く太陽エネルギーのわずか0.02%を長年にわたって蓄えてきたものを乱用してきたといえるでしょう。すでに生態系の循環能力を超えたところで文明を享受しているといえるでしょう。人類は化学反応のエネルギーに依存してきたといえるでしょう。 18世紀後半に起った産業革命は化学反応に根ざす文明に画期的変化をあたえ、化学エネルギーを機械エネルギーや電気エネルギーに転換する技術ノ獲得によって、200年の間に快適な生活をエンジョイする状況から、地球温暖化現象に見られるように環境との折り合いを悪くして、曲がり角に差し掛かっています。人間の営みが生態系のキャパシテイを超えてしまったことが原因でしょう。人類がエネルギーの大量消費を招いたために、生態系の光合成能力や循環能力を超えて化石エネルギーを消費したことが自然の循環を妨げ、いまの環境問題を顕在化しました。 従って、産業革命から始まる大量需要、大量消費の世界が、そういう状況を生んだのであれば、考える原点を変えなければいけません。21世紀社会は資源の大量消費に乗った快適さから脱却して、むしろ環境保全がより高い理念として求められます。リサイクル社会、リサイクル文明に対する認識が強くなってきています。しかし、これまでの文明の所産を捨ててまで環境保全を図っていくことが社会的に可能でしょうか?

○資源確保と環境保全の同時達成  資源を確保し、環境保全を図りながらリサイクル文明を構築していく道がないのでしょうか。生態系の保全に配慮しながらもエネルギー資源の大転換がそれを可能に出来ないでしょうか。これはまさに1992年の国連決議に表されています。 化石エネルギーの大量利用は地球の物質循環を破壊していきます。これを防ぐための方策として、化学エネルギーから核エネルギーへの移行が議論され、導入が続けられてきました。実は核反応に支配されるのは宇宙それ自体で化学エネルギーと核エネルギーには大きな違いがあります。地球の生態系の循環を越えるところでは核エネルギーに依存することを否定するわけには行きません。 しかし、時代の変化は、そう簡単に行く訳では、ありません。そこには、ゆるやかな移行が必要でしょう。  そのような観点に立てば、原子力新時代の幕開けに際して最初にやるべきことは 20世紀後半をかけて取り組んできた原子力開発の成果および安全の実績を冷静に評価することでしょう。私は20世紀後半の原子力の開発および実用化を肯定的に捉えています。所詮人類は地球に降り注ぐ太陽光線(太陽の原子力)と地球の原子力に依存して生きていくしか方法がないのです。  私は自然エネルギー利用の重要性は認識しています。今後再生可能エネルギーとしての重要さは社会の都市構成の変化、エネルギー利用の変化と関連した議論が重要になるでしょう。然し自然エネルギーを文明の基本においてサポートする主役を期待することには無理があると思います。 文明は科学技術にこれまでエネルギー、物質、技術および情報4つの要素を求めてきました。時代の変化、文明の進展により、その量や質に大きな変化は見られても基本的にはこの4つが文明をその基本で支えてきました。確かにその中心にエネルギー供給があることは否定されませんが、他の要素をどのような形で提供するかはそれに劣らず大切です。

3.福島第一原子力発電所事故について考える

 福島第一原子力発電所で今回の地震で発生した原子炉事故は大きな社会的反応を生み、原子力の存在その是非論が議論の対象になるなど今後に与える影響は大きいものがあります。 確かにこのような事故や事件が発生した際に生まれる社会的議論あるいは反応として理解し、やがて冷静さを取り戻すという考えもありますが、原子力は人類社会においてここ100年ぐらい前から姿を見せ始めた新しい科学技術で、特にその軍事利用があまりにも衝撃的であったため、ネガティブイメージを持っています。この際その本質を見定め、新しい科学技術として文明をその基本でサポートできるか、また人間の生存権、生活権また直接には原子力施設の周辺の人々のさらには国民の生命健康に被害を及ぼさないかなどについての議論は当然行うべきことかと考えます。

ここで述べたこれまでの議論が文明論的観点からの原子力についての考察であったとすれば、福島第一原子力発電所の事故はより現代社会に直接関連した性格のものであり、その理解あるいは解釈を元として文明論的考察にどのような影響を与え、ひいてはその存在価値の有無にまで議論が展開していく性格のものでしょうか。 社会と科学技術の共存はその社会性、経済性さらには安全性が社会的に容認できるかどうかにかかっているでしょう。社会性には生活権、生存権まで入り込む余地が出てきます。 私は福島事故の報に接した時、最初に考えたことは公衆の生命が守られることでした。同時に集団的健康影響として重大事故、仮想事故で想定する放射能量を超えているかでした。確かに生活権が脅かされることは深刻であり、その回復と人心の安定には時間を要することでしょうが、曲がりなりにも修復回復が可能な事項に比べて人命は回復不能のことであり、これがまず大きく取り上げられるべきことと理解し、対応してきました。また周辺公衆を含む集団線量に関してはその値が重大事故と仮想事故の間にあることに加えて、広島長崎の原爆被爆者さらにカザフスタンセミパラチンスクの100万人ともいわれる被爆者を対象にこれまで放射線医学の立場から研究を進められてきた学者の発言からそれほど深刻にはならないかという感触を持っています。したがって少なくとも安全は安全審査などで扱ってきた結果と比べて大きくずれがあるものとは必ずしも言えないのではないでしょうか。基本的に周辺の人々の安全は確保されたものと考えて差し支えないのではないかとおもいます。起こった事象の大きさに目を奪われるだけでなくむしろ、公衆の生命健康が守られたか否かが最初に問われるべきことでしょう。この結果が将来のより安全な原子力システム生み出すことにつながり、文明論としての展開の中に原子力を位置付けることを可能にすると考えられます。 確かにこのような観点に立った判断は必ずしも現在被災され、不自由を余儀なくされておられる方々には受け入れがたいことかもしれません。そのため一日も早い経済的困窮、精神的苦痛に対して、修復、原状復帰のための速やかな対応がされることを望みます。

4・おわりに

福島第一原子力発電所の原子力事故は原子炉を初め施設に大きな破壊をもたらし、放射能放出につながりました。津波対策をはじめ事故管理対策などが完全であれば事故を防ぐことも、事故の進展を防ぐこともできました。これは後から振り返っての誰の眼からも明らかな結果論です。しかし、これを反映すれば次は防げるのです。こうして人類は事故の教訓を生かして賢くなり、未来に向けた改善、定着の歴史により文明を築いて来たのです。原子力も例外でなく、この事故を更なる安全強化に繋げてゆかなければなりません。
今、やらなければならないことは、事故現場の後始末、事故調査ですが、これらは当事者、指名を受けた専門家に任せるしかありません。後日の評価に耐えられるよう仕事として使命感をもってやっていただくことを期待します。その他の原子力関係者は、陳謝したり、嘆いていたり、批判したりしている時ではなく、やるべきことは、被災事故で「安全」が失われたという社会の怒りを受け止めて、安全とは何か、強化すべき安全は何かを示し、不信で傾きかけている日本を座視せず、信じていることを社会と語り、日本を世界から取り残されないようにしなければなりません。この被災事故は酷い事故でしたが、克服し、立ち直ることができる程度に(神が)抑えてくれたように思います。この自然からの試練を「転災為福」とし、広島、長崎で被災した日本から原子力基本法の精神にのっとり、原子力に支えられた文明の在り方を世界に示そうではありませんか。

★ お願い:上記に関して、感想/コメント等がありましたら、下記メールアドレスにお寄せ下さい。

        メールアドレス  nsf@onyx.ocn.ne.jp